若い頃、親父とはかなりぶつかった。
「野球部に入れば勉強しなくなるからやめろ」
「そんな大学に行って何になるつもりだ」
「黙って言うことを聞け」
そんな一言ひとことに猛反発した。
そのやりとりはかなり激しく、
母は「家に2人だけにしておけない」と
妹が不在の時は買い物にも出られないほどだった。
親父が死んで15年。
あの頃の親父の思いは、今さらながらよくわかる。
まぁ大正生まれだから考え方も古いし、
自分の健康状態に自信がなかったせいで焦ってたけどね。
私はまだ若かったから、
言ってみればちゃらんぽらんな割に熱かった。
屁理屈を並べ立てて怒鳴り返す息子を見ながら
親父はどんな思いでいたのだろう。
「いま生きていたらなぁ」と時々思う。
「野球部なんか」と言いながら本当は野球好きで、
本来私を野球好きにしたのはの親父だったから
高校野球に青春を賭けている孫や
あの頃親父が私に強く勧めていた大学に入った孫を見たら
どんなに目を細めただろうと思う。
自分は根っからの巨人ファンだったくせに、
阪神ファンの私に話を合わせてくれていた親父。
大学時代は1ヶ月か2ヶ月に1度のペースで
便箋何枚にもわたる分厚い手紙を送ってくれた親父。
危篤だと知らされ、病院に駆け付けたら
ICUの中からガラス越しに私の顔を見、
周囲で慌ただしく処置している看護士さんたちに
「アイツがオレの息子だ。息子が来てくれた」
と教えるように、嬉しそうに指差した親父。
あれはいつのことだろう。
私はまだ小学校には入っていなかったと思うのだが。
家族4人揃って花巻祭を見に行った時のこと。
両親は自分達が楽しむより
我々子どもたちに楽しんでもらおうと思っていたことは
今だからこそよくわかる。
だから散々人込みの中を歩き回り、
挙げ句帰りのタクシーを拾えずに2kmの道のりを
疲れきって泣きべそ状態の幼児2人の手を引いて歩くのは
親父にしてみれば悔しいことだったに違いない。
ようやく家に、あと50mほどで辿り着こうという時、
親父と母は口論を始め、
とうとう親父は手に持っていたおみやげの綿飴を
バリバリ破いて地面に放り投げてしまった。
散らばった綿飴の残骸を4人が取り囲んでいたのは
随分長い時間だったような気がしていたけど、実は数秒だろう。
親父はさっと踵を返すと、夜の闇へと消えていった。
地面に散らばった綿飴の残骸は惜しかったけれど
それ以上に家族の残骸のように見えて、それがとても悲しかった。
大声で泣き叫ぶ私たちを母は無言で家に連れ帰った。
しばらくは私たちの相手をしてくれたと思う。
元々疲れきっていた私たちは泣くことにも疲れてぼんやりしていた。
もう親父は戻って来ないような気がして
それが恐くて母に親父の行方を聞くことをためらっていた。
しばらくすると、玄関の戸が開いた。
新しい綿飴の袋を手に持ち、照れくさそうな笑顔の親父が
「もう店じまいするところを捕まえて買ってきた」と
私たちの頭を撫でてくれた。「悪かったな」と。
我が家では自家用車を持っていなかったから
体の弱い親父が4kmの道のりを走って往復してきたのだ。
私たちはもちろん綿飴よりも親父の帰宅がうれしくて
飛び跳ねながら4人で分け合って食べたことを思い出す。
いつもなら寝る時間をとうに越えた夜だった。
あの時親父はどんな思いで4kmを往復したのだろうと
今になってふと考えたりしている。
息子たちにとって、私は親父のような存在になれているだろうか。